難波大助の手紙
難波大助(1899-1924)、歌川克己


1923年~1924年

※虎ノ門事件の犯人・難波大助の友人の歌川克己が所持していた手紙が、三一書房より1967年に刊行された『青春の記録3 自由の狩人たち』に掲載、
 さらにその内容が黒色戦線社より1972年に刊行された『難波大助大逆事件 虎ノ門で現天皇を狙撃』に転載されたものとみられる。ここでは後者を使用している。

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難波君と私(歌川克己)
深川富川町時代
第1信 一九二三・二・二〇
第2信 一九二三・二・二四
第3信 一九二三・二・二六
第4信 一九二三・三・六
第5章 一九二三・三・三一
第6信 一九二三・四・九
第7信 一九二三・五・一一
第8信 一九二三・五・一二
第9信 一九二三・五・二二
第10信 一九二三・五・二九
第11信 一九二三・七・三
第12信 一九二三・七・一六
第13信 一九二三・七・一八
第14信 一九二三・一〇・一九
第15章 一九二三・一一・七
第16信 一九二三・一一・二一
第17信 一九二三・一二・一
第18信 一九二三・一二・二
第19信 一九二三・一二・八
第20信 一九二三・一二・一六
決行直前の手紙
第21信 一九二三・一二・二三
第22信 一九二三・一二・二五
第23信 一九二三・一二・二六
第24信 一九二三・一二・二七
獄中書簡
第25章 一九二四・二・六
第26信 一九二四・二・二〇
第27信 一九二四・一〇・一〇
第28信 一九二四・一〇・一四
父への遺言 一九二四・二・一三

難波君と私
歌川 克(※ママ)

 難波大助君の私信は二十数年来筐底に秘めていたもので、これを世に出すべきか否かについて、終始迷いつづけてきたのだが、こんにち偶然の機会から公表することになって、地下のかれに対する義務をようやく果たしたような気がする。それはほかでもなく、かれの品性と思想 を、こじつけや歪曲のまじらない、かれ自身の生のままの姿によって直接わかってもらえるからである。
 虎ノ門大逆事件の単独の決行者としてかれの名は今もなお人びとの話から消えないが、その人格なり思想なりについては、こんにちにいたるまではとんど紹介されるところがなかった。それというのも、かれが当時、労働団体や思想団体などと一さい関係をもたず、先輩、知己、友人なども極めて少なかった事情によると思う。わたしとの交友も、一九二二年(大正十一年)われわれが早稲田高等学院に入ったときから、翌翌年十一月、かれが死刑になるまでの二年半にすぎなかったから、その以前の経歴や家族関係、郷里などのことはわたしも深く知らない。
*
 わたしの記憶に残っているかれは、無口な、どちらかというと控え目な男だった。いつも教室の片隅にすわって講義をきいていた。友人も少なかったようだが、別に淋しそうにもみえなかった。まっ黒な顔に、小さい身体ががッしりとまとまっていた。それでいて全体から受ける感じにはどこか人の心に呼びかける力があったことを覚えている。
 読書欲の旺盛なことはおどろくばかりで、原書なども特に思想的なものはよくあさっていたようだ。当時海外のものは未紹介のものが多かったし、来ているものも大部の書籍となると買う金がなかったから、われわれが手に入れえたのは多くはパンフレット類だった。そして買えない本は図書館で、倦むところを知らなかった。下宿などでも別に悲憤慷慨するというふうではなく、一つのことを話すについても静かに言葉少なに口を切った。
 そのかれが、二学期の半ばすぎころから、パッタリ教室に現われなくなった。もともと自分で好きな本を読んでいる時間が多く、教室への出席はいい方ではなかったが、それが全然出てこなくなった。やがてその年も暮れ、翌年三学期の始まったころ、わたしの下宿へぶらりと訪ねてきたかれは、つれだって神楽坂を散歩しなから、突然こんなことをいいだした。
「学校を止す決心を親父に告げてきた。親父は 涙を流して諫止したが、自分は思想と在学の矛盾を解決するためには学校をよすほかないと考える。君はどう思うか――?」
 わたしは、しばらく考えたのち
「親父が君にあたえた言葉はおなじくぼくが君にあたえる言葉だ」と答えた。かれはそのとき明らかに失望したように見うけられた。かれの永い間の心的闘争は、廃学によってようやく新しい血路を見出したところだったのだ。
 結局かれは自分の決意を実行に移した。まもなく富川町の木貨宿の生活が始まり、踏みきろうとして踏みきれないでいた社会運動への第一歩を印した。その後のことはかれの通信が、かれ自身の言葉で正確に語ってくれるだろう。
*
 かれがテロリストであったことは議論の余地がない。そして、問題の虎ノ門事件については、それが数ヶ月にわたる計画だったのか、それとも数日ないし数十時間のそれだったのかは、今もって判定に苦しむところだが、おそらく偶然の機会をつかんだと見るのが正しいようだ。
 かれの手紙のうちに最も頻繁に現われる言葉 の一つは、〈呪い〉である。しかしそのことから、かれを冷徹無残の非人間のように考えることは非常な誤解のように思われる。無残どころか、かれはむしろ、わたしの知るかぎり、情誼に厚い、純情な、いつも人間愛にあふれた男だった。
 かれの社会的功罪は、人それぞれの観点から批判されるであろう。わたしとしてはただ、はじめてありのままのかれを世に出すことをもって、地下の友へのひそかな餞けとするのみである。




深川富川町時代
第1信 一九二三・二・二〇

 △その後大したこともない。そして得るところもあまりない。
 十八、十九、二十、大てい昼は上野図書館でくらした。
 職はまだ少しも探さぬ。懐中にある二円の金がなくなったら探しはじめようかとも思っておる。
 しかし実際のところ少しも働きたくない。働けば働く間はブルジョアの奴隷である。
 そして報酬はブルジョアが搾取したほんのお余りを頂戴して満足しなければならぬ。一時でもブルジョアに支配せられ、そして搾取者になるなんて虫が好かぬ。虫が好かぬばかりではなく、それは憎悪の極点だ、それでここ当分は考えの中にある。
 △いよいよ木下ホテルにはいるまでにはホテル通りをかなり長い間うろついてどれへはいったものかとちょっと迷った。潔癖という悪癖の然らしむるところか、とどのつまりは小綺麗な家に飛び込んだ。
 うす暗い四畳の部屋だ。フトンが三人分用意してあり一人はすでに蒲団を敷いて小さいローソクをとぼして寝ながら新聞を読んでおる。向こうも一口もいわなければこっちも一口もいわぬ。自分が蒲団を敷いて少ししてまた一人はいって来た。気味の悪いほどすごい男だ。だまってこれはすぐ蒲団にもぐり寝てしまった。なんだか頗る気まずいようだ。物をいおうかと思ったが面がみな癪にさわるから止しちゃった。
 俺の部屋は下でこの家には二階もあり三階もある。そして俺の部屋からちょっと行ったところに風呂もあり便所もある。風呂か隣の部屋かで高い声で話していた。参政権運動の、社会主義の、朝鮮・満州の、向こうに行っておれば日本の有難味が分るの何の etc. ……しかしこんなところといって満更無知の人間はおらぬような気がする。デモンストレーションの何の英語で話していた奴もいたから小インテリゲンツィアぐらいは少しはおるかも知れぬ。
 二日目も同じ部屋だ。例のダンマリの角刈りの労働者は例のごとく寝ながら新聞を読んでいた。俺も二日目から電球が暗くてなんにも読めぬことを知っておるので、買って来たローソクをとぼして新聞を読みはじめた。何たる皮肉ぞ。向こうのは豆ローソクで暗きこと電球と変わりはない。しかるに俺のローソクは向こうに迷惑になるほど煌々と照っておる。恐らく催の財布の中味は向こうの労働者の中味より少ないであろうが、なんだか俺がブルジョアであると思われるようで気持が悪かった。
 しかしそんなことは下らぬ書くに価せぬことだ。二日目もついにその worker とは物一口いわなかった。
 三日目すなわち昨夜も同じ部屋だ。すでに二人ほど蒲団の上に座って話をしていた。話というよりはくだを巻いていた。どちらも酒に酔っておるのだ。一人は真裸になっておる。好く見ればそれが例のダンマリの角刈り worker だ、一人の方はちょっと年を取っておるようだ。二人して洲崎へ乗り込みの相談らしい。しかし話が成立せず二人ともブツブツいいながら寝てしまった。
 今朝だ。ガラス障子の外を見れば雨が降っておる。 全くうんざりした。寝ながら二人の話を聞いていた。賢所が出る。二重橋が出る、衛兵が出る、吹上御殿が出る、皇后陛下の散歩が出る、殿下宮様曰く何々みんな宮城内のことだ。二人とも近衛兵であったらしい。
 二人の近衛兵とアナーキストとが枕を列べて寝たわけだ。
 それから今日は二人とも仕事を休むと見えて浅草へ遊びに行くことを相談していた。 年よりの worker は貧弱な御面相を髯をそりに行き角刈り worker に男ぶりの自慢をしておる。彼らが出かけぬうちに俺はホテルを飛び出して図書館へやって来た。
 途々考えた。彼らの生活はきわめて単純だ。働く食う遊ぶ楽しむ、彼らの生活は享楽の二字で尽くるようだ。現行社会制度への呪詛もなければ反逆もない。こんな連中がプロレタリアならブルジョアも天下泰平だろうが単に二人の人間の観察によって多くの労働者を意気地なしと断ずる早計は俺はせぬつもりだ。これから出来るだけ労働者の多くを観察して彼らの生活主義の奥底までもつきとめて見るつもりだ。
 △十七日から昨日まですでにクラスの人間に二人も出会いかけた。俺が先に彼らの顔を見たのでうまくよけたが、なんだか俺はクラスの人間を恐れるようで頗る気持が悪い。長い間には狭い東京だもの、どうせ彼らの一人二人とは出会うだろう。何にも俺が彼らに悪いことをしたわけではあるまいし、いっそのこと俺が学校を止めた理由および他の主義を書いて堂々と彼らに発表しようかと思っておる。これは君への相談だ。
 △十八日の晩だ。図書館を出て車坂の公衆食堂を出て、てくで宮川町まで帰りよったら警官の奴が俺を呼び止めた。道の真中で五分ぐらい審問した。人があまり寄るものだからとうとう二三町先の交番まで俺を引っ張って行き、根掘り葉掘り尋ねやがった。
 最初俺の服装の異様と木刀から判断して俺を赤心団(当時の国粋的右翼団体・注)の壮士と間違え、さらに不良青年の団長ではないかとまでいいやがった。俺は落ちつき払って一々弁ばくして行ったものの、一時ははらはらした。確かに警官より俺の方が一枚上手であった。
 警官(君は政友会か選政会か)俺(政治には少しも 興味を持ちません)P(今は何をしておるか)俺(なんにもしていません、職を探しています)P(将来何をするつもりか)俺(法律をやるつもりです)P(財布の中にいくらもっておる)俺(二円と少し持っております)P(それがなくなったらどうするつもりか) 俺(職を見つけて働きます)P(富川町に無料宿泊所があるのを知っておるか)俺(知りません)……とどのつまりは police も俺のために無料宿泊所と職業紹介所とを親切に教えてくれ、寒いだろうから火にあたって帰れといった。俺曰く(御役人様に御親切にして戴いて真に相済みません、この御恩は長く忘れませんから名刺を一枚戴けませんでしょうか......)
 無知と甘い人間に対しては下手に出るに限る。アナーキストも悠々と交番の中で手あぶりをして引き上げた。ちょっと物騒のことがあったのは、俺の風呂敷包みに眼をつけて調べかけたことだ。中には君の手紙がある。俺の君に書いた手紙、俺の日記がある。見られては大変だ。そこで俺はなに風呂敷の中には図書館で法律のことをちょっと書きつけたノートが一冊あるばかりですといって甘く逃れることが出来た。俺は交番を出てからノートの中の手紙が気にかかってならぬので、途中書類一切は破って隅田川に捨ててしまった。
 俺はこのことで痛切に感じた。なにしろ自分が書いたものを持っておることが一番危険である。帰って早速書き物抜き書き等は破って便所に捨てた。
 △図書館から昨晩帰りにちょっと君の所へ寄って見たが、二言叫んでも返事がなかったので引き返した (午後八時頃)。多分君は散歩にでも出て行っていたのだろう。
 △木賃ホテルは思ったよりは綺麗だ。蒲団等もちょっと新しいのを使っておる。一晩三五銭也だ。
 △もう二三日は同じ家におるつもりだ。
 住所 深川区富川町三十一番地 第二煙草屋
 ホテルノ名デタバコヲ売ル家ニアラズ
 森下町から橋を渡ってすぐ川にそって右にまがり十五間ぐらい行った所だ。夜は八時以後は何時でもおるつもりだ。
 △平凡なる第一信はこれにて止める。君の僕に尽くしてくれた絶大なる援助に対してここに改めて感謝と敬意を表しておく。君の自重自愛を切望す。



第2信 一九二三・二・二四
思想と行為との dilemma

 俺はどうすればよいのか。
 俺はまだ決心が定まらぬ。
 俺は今日総同盟へ行って見る。
 しかし駄目の時は?
 Anar. (anarchist の略・注)たる俺がたかが普選ぐらいで――しかしter. (terrorism もしくは terrorist の略・注)の逃避として当分別荘住いするのも一つの方便 として――
 しかしそれにしてもなんだか馬鹿らしい骨頂のような気がする。
 俺はどうすれば好いだろうか。
 あのネジダーノフ(ツルゲーネフ『処女地』の主人公・注) のごとき弱々しき心のごとき心の持主たる俺は全く dilemma の底深く沈みそうである。
 俺の信する――そして熱愛する歌川。
 願わくは俺を激励してくれ。
 △朝から雪が降る。
 空腹と寒さとは生命の短縮。
 どん底生活を美化して徒にセンチメンタルな空想を追うする勿れ。
 どん底が現実である人間にとってはどん底生活は呪祖であり憤激であるばかりである。俺は今体験の真只中にある。
 俺は弱くても強いぞ。俺はあくまで進まなくてはならぬ。
 一九二三・二・二四、noon
 


第3信 一九二三・二・二六
 歌川君――
 △昨日は失敬した。君の大事な時間を空費さして真に相済まぬ。
 僕は君の所へ行くと、ほんとに、のんびりした気分になり何時でも予定より長くなってあとで君に対して気の毒に思う。
 この後は、君が勉強したい時、遠慮なく僕に帰るようすすめてくれ給え。
 君が僕に遠慮するのはまだほんとうに僕を信じておらぬ証拠だ。
 △今日八時頃からテクで総同盟に行った。
 会員の一人が同志に頼んで職を心配してやるといった。
 その人間は麻生久氏の名すらよく知っておらぬようだ。
 麻生氏は今では総同盟とは関係はちっともないようだ。
 とにかく、万事がうまく行きそうだ。もう一度明日その会員のおる貧民長屋に行きてよく話して見るつもりだ。
 総同盟としては失業者や初めての就職者に財産を与えるようなことは、やっておらぬとのことだ。
 ただ同志の者が助け合って職を心配することになっておるとのことだ。
 単に組合へはいるのは労働者は何人でも出来るとのことだ。
 △俺の前途には大分 crarte (clarté「光明の意・注」)が見えはじめた。
 労働者となり力強い組合員の一人として階級闘争の真只中に飛び込むのも、遠きことではない。俺の唯一の親友歌川――俺の前途を祝福してくれ。
 俺は君および骨肉を脅威する terro. から完全に逃がれ着実なる手製方法により(それは決して微温的行動ではないと信ずる)、多数に俺の主義を高くかかげ、前途に猛進することが出来るのだ。
 △無指揮無団結の mop(群衆・注)共に何事が出来るか。
 何万という群集も、わずか二三千の警官に蹴散らされ、手も足も出ぬではないか。
 未来は労働者のものだ。幾百万幾千万の労働者が集団して、この集団が一つの指揮の下に動くとき、権力 の奪取は易々としておこなわれる。
 俺はアナーキストであり、サンジカリストであるが、プロレタリアが一層団結し力を握るまでは centralization (指導者による統制・注)で行くことを是認する。
 △俺は当分のradical (急進的・注)な思想を組合運動でごまかすことに満足する。
 総てが播き直しだ。俺は理想を少しく遠慮して一労働者一組合員としての務めをこの後忠実に遂行して行こう。
 △俺は昨日君に話したごとく、一の芝居を打った。
 一の妥協――それは卑屈であるかも知れぬが一方便として、手段として止むを得ぬことだ。まだ芝居中でことは進行中――この問題は解決したら君に話す――しかして君の批判をあおぐつもりだ。
 △テクで朝ホテルを出て、テクで晩帰る。
 無賃ほど、安いものはない。切りつめた生活では一度の電車貨で半日の生命を持続することが出来るので、電車に乗るのは気が引ける。
 歩いておると機械文明が呪わしくなる。交通機関が如何に発達し、電車・自動車・汽車等の設備が如何ほど好く整おうと、無産者はこの恩恵に少しもあずかることは出来ぬ。プロレタリアはブルジョアの専有である文化・文明の上に呪いがあるばかりだ。といっても 何も negative にガンジー式に文明を否定はせぬ。
 △ここにはいろいろの人間がある。
 そして大部分、かなり好いくらし(といってぜいたくとは決していわぬ)をしておるようだ。
 同じ部屋の二人とも昨日は酒にぐでんぐでんに酔って帰り、今晩はまた洲崎へ。
 宿貨を払い、食った上、酒と女を買う余裕がある彼らは一見幸福そうに見える。
 それは皮相の観察で、彼らの口振りから判断すれば 実際は彼らは不幸なのだ。
 親もない兄弟もない自分の体を唯一の財産として絶えず生活と戦う苦しさ。
 そしてこの苦しさ、さびしさをごまかすために酒と女を。
 俺は彼らが単に食うため呑むため性欲のために奴隷と同じような労働生活をしておることに対して抗議を申し込むことは出来ぬ。
 奪われた教育のために知識の不足の結果彼らに階級意識がないのは、ちっとも不思議ではない。
 君にいったごとく、彼らに socialism の propaganda をしてもあまり効果がありそうには思われぬ。
 彼らはただロシアの農夫のごとく先では工場労働者にひきずられて行くのが関の山だ。
 ブルジョアの時代にはブルジョアの被支配者として満足し、プロレタリアの時代にあればまたプロレタリアの先覚者の被支配者に。
 彼らは永久に奴隷となるために生まれて来たようなものだ。
 △権力者・ブルジョア・およびその手先共が、ここ富川町の労働者の御機嫌を取ることよ!
 何時から何時までの間にただで飯を食わせるの、髪をただで刈ってやるの、国技館の特等席で、やはりただで活動写真や浪花節を御馳走するの、富川町の労働者も御馳走攻めでなんのことやらとさぞ面食らうことだろう。
 今晚玄関でここの主人と外来者との問答
 外来者(ここには何人ぐらい泊っておる人がおりますか)
 主(四十人です)
 外(明晩国技館で特等席でただで活動写真と浪花節とを見せますから労働者にみな行くように奨めて下さい。それでは四十枚切符を置いて行きますから)
 主(ごくろうさま)
 ―――   ―――
 そうすると誰やらが向こうの部屋の方で(思想悪化を防ぐ御機嫌取りか)とフフンとせせら笑う人間がおった。みんなこんな人間ばかりというとブルジョアのエサに引っかからんで済むだろうに。
 悲しい哉そして呪うべき哉。ただと特等席とのわなに引っかかり、それでなくとも旧思想のここらの労労働者の思想はいやが上にもブルジョアの毒手により旧化せられ――とどのつまりは去勢された馬同様の無反抗者に。
 ブルジョア制度につきものたる滑稽なる、しかして巧妙なる手段の産物がこんなところにおると手に取るように見すかされ噴飯の至りに堪えぬ。
 △夕食の代りにかけを一杯食うつもりでソバ屋に入った。量は山の手より少し少ない。十銭ではちょっと高過ぎるかと思って見出しを見れば、かけもり五銭と書いてある。五銭なら全く安い。物資の総てが安いのはここらの特徴であり、頗るプロ的で気持が好い。活動も三十銭・四十銭・五十銭と等差が僅か十銭である。
 △六時から七時頃の木貨ホテル通りの賑やかさ。
 支那人・朝鮮人・日本人の労働者が呑むためと食うために酒屋・飯屋・ロダイに蟻のごとく密集して騒音雑音の異様な symphony
 その光景たるや正に痛快なる壮観だ。
 俺は今晩本当に富川町の charming なのを知った。
 △君は試験で急がしかろう。
 しかし何も好い成績を取ることは、よし親の手前にしろ不必要なことだろうから、余裕しゃくしゃくとやるべしだ。
 君のために切にすすめる。
 △くだらぬことを書いておるうちにローソクの火が消えかかった。
 今日はこれで。
   信ずる友、歌川へ
                    大より
  一九二三・二・二六 夜十一時。




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